文学散歩漱石こゝろ 先生の遺書 先生の死

「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟しげきで躍おどり上がりました。しかし私がどの方面かへ切って出ようと思い立つや否いなや、恐ろしい力がどこからか出て来て、私の心をぐいと握り締めて少しも動けないようにするのです。そうしてその力が私にお前は何をする資格もない男だと抑おさえ付けるようにいって聞かせます。すると私はその一言で直すぐぐたりと萎おれてしまいます。しばらくしてまた立ち上がろうとすると、また締め付けられます。私は歯を食いしばって、何で他ひとの邪魔をするのかと怒鳴り付けます。不可思議な力は冷ややかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。

波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。妻さいが見て歯痒がる前に、私自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。私がこの牢屋の中うちに凝じっとしている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟ひっきょう私にとって一番楽な努力で遂行すいこうできるものは自殺より外ほかにないと私は感ずるようになったのです。

私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解わからないように、あなたにも私の自殺する訳が明らかに呑のみ込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。あるいは箇人のもって生れた性格の相違といった方が確かも知れません。私は私のできる限りこの不可思議な私というものを、あなたに解らせるように、今までの叙述で己を尽つくしたつもりです。

私は妻を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合です。私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない間まに、こっそりこの世からいなくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。

私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。

私は私の過去を善悪ともに他の参考に供するつもりです。しかし妻だけはたった一人の例外だと承知して下さい。私は妻には何にも知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存しておいてやりたいのが私の唯一の希望なのですから、私が死んだ後でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」