山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟た時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世りもなお住みにくかろう。
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容て、束つかの間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊っとい。
「山を越えて落ちつく先の、今宵の宿は那古井の温泉場ばだ。」
「六畳ほどの小さな座敷へ入られた。晩餐を済まして、湯に入いって、室へ帰って茶を飲んで、何気なく座布団の上へ坐ると、唐木の机の上に例の写生帖が、鉛筆を挟はさんだまま、大事そうにあけてある。
「海棠の露をふるふや物狂」の下に「海棠の露をふるふや朝烏」とかいたものがある。
「花の影、女の影の朧かな」の下に「花の影女の影を重かさねけり」とつけてある。
「正一位の女に化けて朧月」の下には「御曹子女に化けて朧月」とある。
女は余が起き返ろうとする枕元へ、早くも坐って
「まあ寝ていらっしゃい。寝ていても話は出来ましょう」と、さも気作きさくに云う。余は全くだと考えたから、ひとまず腹這になって、両手で顎を支え、しばし畳の上へ肘壺の柱を立てる。
「御退屈だろうと思って、御茶を入れに来ました」
菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好だ。
「しかし東京にいた事がありましょう」「ええ、いました、京都にもいました。渡りものですから、方々にいました」
「ここと都と、どっちがいいですか」「同じ事ですわ」
「こう云う静かな所が、かえって気楽でしょう」「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。蚤の国が厭いやになったって、蚊の国へ引越ひっこしちゃ、何んにもなりません」
「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出してちょうだい」と女は詰め寄せる。
「「御望みなら、出して上げましょう」と例の写生帖をとって、女が馬へ乗って、山桜を見ている心持ち――無論の筆使いだから、画にはならない。ただ心持ちだけをさらさらと書いて、
「さあ、この中へ御這入りなさい。蚤も蚊もいません」と鼻の前へ突きつけた。驚くか、恥ずかしがるか、この様子では、よもや、苦しがる事はなかろうと思って、ちょっと景色を伺うかがうと、
「まあ、窮屈な世界だこと、横幅ばかりじゃありませんか。そんな所が御好きなの、まるで蟹ね」と云って退のけた。余は「わはははは」と笑う。
※投稿者の考察
- 「草枕」という小説は、旅人である「画工」と温泉宿の女主人が共に「非人情」な生き方を演じる小説と言える。
- 従って、ストーリ性は全くない。僕も非人情の人生観は、理解できる??ので面白かった。
- 女主人公の似合う花として花海棠がある。我が家の庭で咲いている。初夏、華やかで可愛らしい花を付る。